◇ 尊敬する音楽家
台湾での衝撃的な体験は一週間経った今でも鮮明に覚えています。たった3日間の練習しかご一緒できなかった両バンドの演奏者たちの表情も不思議と記憶から離れません。デビューからちょぅど10年目となった私にとって新たな目標を頂いた機会だと感謝しています。さて、私が吹奏楽界に「デビュー」した、いや、させて頂いたきっかけは21世紀の吹奏楽第4回“響宴”です。その時には【ディメレンタスII】という序曲形式の、まだ私の代名詞となった〈八木澤コラール〉も確立されていない時代の作品。大学一年生の時に当時お世話になっていた千葉吹奏楽団よりの委嘱で書かせて頂いたものです。後に千葉吹奏楽団には【カッパドキア】を恩返しも兼ねてプレゼントさせて頂いているので、こちらの方が同団を紹介する意味で皆さんには親しみ深いかもしれません。人との縁が広がり常に現場で経験・勉強させて頂きながら今日の活動に至った私ですが、本当に多くの素晴らしい音楽家、吹奏楽指導者の先生方にお世話になり、影響を受けてきました。
台湾のこともあって久しぶりに「デビュー」当時のことを感慨深く想い、今日は懐かしさもあって今後の人生を占うことになった市川市立新浜小学校吹奏楽部との出会い、26歳であった私がその体験を日記のように書いた【新浜小学校吹奏楽部を応援するページ】を読み返してみました。とても新鮮な感覚、体験をフレッシュな気持ちで書いていますので乱筆ではありますが、宜しければご覧ください。そう、当時、同小学校吹奏楽部の顧問でありご指導をされていたのは「田川伸一郎」先生。名も無い私が日本中に知られることになった【吹奏楽のための音詩「輝きの海へ」】の考案、委嘱者であり、同作品で同吹奏楽部を文部科学大臣賞(全国第一位)を受賞に導いた先生でもあります(写真は2002年TBSこども音楽コンクール文部科学大臣奨励賞受賞記念演奏会サントリーホールにて)。これまで素晴らしい先生方にはたくさんお会いしましたが、田川先生との出会いは〈八木澤コラール〉が生まれるきっかけにもなったこともあり特に衝撃的なものです。田川先生との出会いがなければ当然今の環境はありませんし、これまで【輝きの海へ】を通して広がった数々の貴重な「縁」も無いでしょう。正直、あの時、田川先生と出会っていなかったら…と想うとゾッとします。人と人との縁はほんの瞬間的な小さなきっかけ。私は本当に運が良かったとしか言いようがありません。
さて、日記のタイトルが「尊敬する音楽家」となっていますが、もちろん「田川伸一郎」先生のことです。「音楽家」と書いているのは意味があり、新浜小学校より転任された私の母校でもある市川市立真間小学校吹奏楽部をたった二年で全国第一位に導かれた後、本年、自らの意志で退職をされ先生は新たな環境で活躍されているからです。現在は「スクールバンドサポーター」という肩書きで活躍されていますが、田川先生ご自身のブログによると「バンドディレクター」と名乗らない理由は“「ディレクター」には「上から引っ張る。指揮する。」といった意味合いが含まれています。私は、これまでの教員経験とバンド指導経験を生かし、それぞれのバンドの実情・顧問の先生の夢や悩みに寄り添いながら、顧問の先生と「同じ目線で」バンド指導のお手伝いをする「サポーター」です。”と書かれていて、これまでは当然ながら赴任された小学校のみに力を注がれていた、あの音楽性がより多くのバンドに伝導されていくのではないか、と私はワクワクしているところです。【輝きの海へ】が完成し、スコアをお渡しした翌日早朝に田川先生からお電話を頂きお話しすると、作曲した私以上にスコアの細部まで熟読され音楽を把握されていたのには驚きと共に「感動」がありました。二年目に書かせて頂いた【吹奏楽のための詩曲「はてしなき大空への讃歌」】の時も同様です。赴任された数々のバンドが子供とは思えぬ名演を残されたのは田川先生の子供たちへの愛情と共に、単にゴールの見えない練習をするのではなく、田川先生の持つ音楽に具体的なゴールを持った子供たちが目を輝かせながら追いかけているからだと私は思っています。私のホームページで新浜小の【輝きの海へ】を提供しなくなった現在では「本当に小学生が演奏したのですか?」と半信半疑なご質問をされる方も少なくありません。You Tubeで演奏が配信されているのを発見しましたので、この機会に既にご存知の方も初めての方もぜひご拝聴ください。奇跡を体感できます。又、田川先生のブログでは吹奏楽指導でお悩みの先生方にとって必見な情報が多々載っています。まだ開設されて間もないご様子ですが今後は「吹奏楽バイブル」になると確信しています。